暑い、という呟きが誰の耳に届くこともなく、初夏の熱気にじりじりと焼き消された。
少し前を歩く黒髪を追うのが精一杯で、右手に持つビニール袋の
がさがさという音さえ風鈴のように涼しく感じる。
2リットルのペットボトルが、非常に重たい。
ちなみにカルピスソーダだ。
いますぐここで飲みたい。全部飲み干す自信がある。
「歯ブラシある?」
「…買い置きが一本」
「じゃあそれも一応買って…あ、歯磨き粉は?」
「…なくなりそう」
必死に溶けかけた脳味噌で、洗面所の風景を思い浮かべた。
今朝歯磨き粉を搾り出すのに少し苦労したような気がする。
歯ブラシもそろそろ新しいのにしなければ、と思いながら
我慢の限界だったからペットボトルを取り出して白い液体を一気に流し込んだ。
気分爽快。
辿り着いた薬局へと駆け込んで、あー涼しい、と一言。
さっさと歯ブラシの並ぶ棚へと向かって、エンヴィーが適当に2本カゴに入れる。
黄色と黄緑のそれを目で追ってからエンヴィーの手元へ視線を戻した。
サイズが大きめのたっぷり入った歯磨き粉を掴んでカゴに入れようとしている。
それを眺めてから、あ、と声を漏らして慌てて制止した。
「駄目だ、それは」
「なんで?」
「だってミントだろ」
辛い、とそれを奪い取って元の場所に戻した。
きょとんとするエンヴィーは無視で、ミント味の歯磨き粉が並ぶ場所から少し離れる。
いつもの見慣れた歯磨き粉を掴んでエンヴィーのところに戻り、カゴに放り込んだ。
「…パイナップル味?」
「大体な、ミントの歯磨き粉使ったら味蕾が溶けるんだ」
「迷信だよ?それ」
「うるさい」
とにかく舌が痺れて無理なんだ、ともうひとついちご味もカゴに放り込む。
少しの間の後、くすくす笑われて睨み上げた。
「なにがおかしいんだよ!」
「なんでもないよ、あはは、いちご味って」
「死ね!」
明らかに馬鹿にされているのは分かったから、ばしん、と自分より高い位置にある頭を叩いてやる。
いたい、という呟きを聞いてから、やっぱ来なければ良かった、とぼんやり思った。
朝の6時に起こされて、今日は休み、と唸って。
10時頃に朝食なのか昼食なのか判断できない食事を食べて。
買い物行こう、と誘われて仕方なく頷いたんだけど。
買い出しを他人に任せるのは良心が痛むし、と呟くとエンヴィーが首を傾げた。
会ってまだ5日目の他人に家事を任せる時点でどうかと思うが、
まぁそれはこいつの仕事なんだししょうがない。
「風邪薬ある?」
「ない。健康だから必要無い」
「えー?念のために買ったほうがいいよ?」
「…苦いのは駄目だ。糖衣がいい」
そう言うとやっぱり笑われて、またこいつの頭を叩く羽目になった。
日用品はそれほどでもないけど、食材が重いったらありゃしない。
やれやれ、とリビングのテーブルにビニール袋を置くと、ぐたり、とだらしなく
その袋がテーブルの上へ大の字になって倒れ込んだ。
お前も疲れたよな、と妙に感慨深くなって呟く。
ビニール袋から食材を取り出して冷蔵庫へと移すエンヴィーをぼんやり眺めて、
元気なやつだ、と疲労で倒れたビニール袋を掴んで洗面所へと向かった。
中から新しい歯ブラシを取り出して、棚へと入れる。
待ってました、と言わんばかりの前からあった買い置きの歯ブラシを取りだして、コップの中へと入れた。
古くなった歯ブラシも疲れたように色褪せて見える。
いままでご苦労様、とゴミ箱へ放り込み、今度は新しい歯磨き粉を取り出してコップの横に立てた。
さぁこれから頑張るぞ、とでも言い出しそうなほど背筋がぴんと伸びている。
それから腰に手を当てて、洗面所全体を見渡してみた。
コップの中には歯ブラシが2本入っている。
まだ新しい黄色と紫の歯ブラシがどこか扇情的。
それからコップの横にある歯磨き粉。
パイナップル味の隣に、それよりも背の高いミント味が立っている。
ちょっとだけむっとして、それを横に倒してやった。
なにかが違う。
いつもの風景にちょっとなにかを足しただけだけれど。
オレにとっては大きすぎる違いだった。
「晩御飯なにがいい?」
「…なんでも」
なんでもいい、と言う呟きは聞こえなかったのか、エド?と首を傾げながら黒髪が洗面所を覗き込んだ。
聞こえなくて当たり前なほどの小声だったからしょうがない。
ぼんやりエンヴィーを見つめ返すと、どうしたの、と聞かれた。
いつもの風景に、なにか足しただけ。
それだけだ。オレの家にひとり住民が増えただけ。
なのにオレにとってはそれが大きな変化で、飽きるほど同じ日々をくり返す日常には
丁度良いスパイスのようだった。
「ねぇ聞いてる?」
「…マンモス肉」
「いいよ。狩りでもしようか?」
にこりと微笑んだエンヴィーが台所へ戻っていく。
こいつなら本当にヒョウ柄の服を着て、竹槍を持って家を出そうだった。
のろのろと洗面所を出て、ダイニングキッチンへと向かう。
「…エンヴィー」
「はい?」
5日目にして初めてその名前を口にした。
それに気付いているかどうかは不明だったけれど、反応は「おい」とか「お前」の時と同じように見える。
「やっぱりハンバーグがいい」
「マンモス肉の?」
けらりと笑ったエンヴィーを見下ろして、うん、と呟いた。
冷蔵庫の前にしゃがんでいる背中を見つめてから、ソファへと向かってそっと座り込む。
そこでぼうっとしていれば、しばらくして美味しそうな匂いが漂ってきて。
いつの間にかお笑い番組が始まって、テーブルとガス焜炉の前を行き来するエンヴィーが椅子の足に躓いて。
ご飯だよ、と呼ぶ声にはっとして手を洗って、いつもと同じ椅子に座る。
いただきます、という声がふたつあった。
美味しい、と呟けばありがとう、という返事が返ってきた。
それだけで少し気持ちが温かくなる。
なんていうんだっけ、こういうの。
美味しいと呟いたって静寂しか返ってこなかった日々が
酷く遠い出来事のように思えた。
back
next
ここからメイントップに行けるみたいだな
おおお…
なんだかエンヴィーの影薄くないか…?