午後7時過ぎ、下駄箱前。
本来なら生徒の大半はとっくに下校している時間で、一緒に帰る友人もいなければいつも賑やかな廊下にも人の気配が無い。
誰もいない割には廊下や教室の電気はつけっぱなしで、エコはどうしたんだよ、とひっそり毒突きながら手探りでコンバースの靴を探した。
秋に近付くと日没も早まって、この時間でも既に足元が危うい状態になっている。
無人の教室なんかより、下駄箱の方に明かりを点けるべきだ。

なんとか探り当てた光沢感のある黄色とアニマル柄の靴を掴んで、乱暴に地面に落とす。
半ば無理矢理つま先を差し込みながら数歩進んで、ずっしりと重い通学カバンを持ち直した。
吐いた息は白くならなかったけれど、男のくせに冷え性で、セーターを着ていないと寒くて仕方が無い。

「ねぇ、ちょっと」

不意に前方から声がして、ぼんやりと顔を上げた。
寒さに丸めた背中を伸ばして、じっと暗闇の中で目を凝らし、ようやく人影らしきものを捕らえる。
誰だよ、と睨み付けながら立ち止まって首を傾げた。
寒さと左手の鈍痛のせいで、少し不機嫌になっている。

「話があるからさ、一緒に帰ろうよ」

どうせひとりでしょ、と言いながら携帯をポケットに入れたのが暗闇の中でなんとなく分かったけど、誰なのかが全く見当が付かない。
声すら聞いたことのないそいつの口調がやけにフランクで、知らない人だと分かっているのに、どこかで忘れてしまっているだけなのかもしれないと思案している。

じっと目を細めると、ピンクとブラックの派手な市松模様の靴がぼんやりと見えた。
ブレザーのボタンとボタンフックは離れていて、青いネクタイが剥き出しになっている。
自分の赤いネクタイを見下ろして、青色って何年生だっけ、と後頭部を掻いた。
学年の判別はネクタイの色でされているけれど、他学年との交流がほとんど無いオレにとってはあまり関係無い。
どちらにしろオレは一年生なので、相手が年上なのは間違いない。

「…誰、でしょうか」

もう一度問うと、そいつは肩を竦めた。
「さぁ、誰でしょう」
どこか楽しそうに笑っているのが、余計にオレの警戒心を掻き立てる。
関わりたくないな、と溜め息を吐きながら、また重い通学カバンを持ち直した。

「お金なら持ってませんけど」
「なにそれ、失礼だなぁ。ちょっとお話するだけだってば」

そんなに緊張しないでよ、と笑ったそいつが凭れている壁から背中を離した。
仕方ない、とのろのろ歩み寄ると、明かりに照らされた顔が微かに見える。
たしかに、知らない顔だった。

「…類いない美形だ」

顔をしかめながら言うと、それはどうも、と肩を揺らして笑った。
オレとは全く正反対の人種とも言える。
同性にばかりモテる女顔のオレと、恐らく女子から黄色い声を浴びるだろうこいつ。
川が逆に流れても、雨が地面から降ってきても、出会うことはまずないだろうとオレは思う。
それくらい、生きる世界というか、次元が違っていた。
この出会いは神様とやらのいたずらか、偶然か必然か。

歩き出したこいつに合わせて、オレもようやく前へと進む。
ぼんやりと長い黒髪を眺めるだけで、特に会話もしなければ、独り言のように呟いた「寒いね」という言葉にも相槌すら打たなかった。
不意に自動販売機の前に立ち止ったのに合わせて、オレも同じように立ち止まる。
小銭を掌に出して、自販機へと投入する動作さえ女性を魅了することができるのではないか、本気で考えた。
がたん、と音を立てて落とされた缶を受け取ると、触れた場所からじんわりと温かくなる。

「…ココアでオレを釣る気か」

そんなに安くないぞ、と顔をしかめて、
「話ってなんだよ」
プルタブを起こしてそれを口に含んだ。
寒かった上に頭を使った後だったから、温かくて甘い飲み物は正直有り難い。

「口説く気も無いから、単刀直入に言います」

口説くってなんだ、とココアの甘さに無意識に警戒心を解きながら、首を傾げて見上げる。
真っ黒な髪と真っ黒な瞳に、やっぱりオレとは正反対だ、とひっそり思いながらココアで冷えた手を温めた。

「俺と付き合え」

は?と間抜けな声を出して、右手だけ温かい缶から手を離した。
自販機で販売している「あったかーい」飲み物は、温かいっていうレベルじゃないくらい、熱い。
熱いので気を付けてください、という注意書きがあったって変じゃないはずだ。

「今、何て」
「俺と付き合ってもらいます」
「…付き合うって、どういう」
「恋人として交際するっていうこと」

いまこの瞬間から恋人になりました、と言いながらお釣りをポケットに入れて、右手を差し出してくる。
「手、繋ぐ?せっかくだし」
お前と付き合う義理もヘチマもない。
ついでに言えば、オレに選択権も拒否権も、無いらしい。

「…間違うやつは多いから、最初の1回くらいは許してやる。オレは男だ」
「知ってるよ。制服見れば分かるし」
「じゃあなんで」
「彼女と別れたから」

は?とまた間抜けな声を出して、ココアを口に含む。
馬鹿げた危機に直面したら、人は困惑するどころか冷静になってしまうのだろうか。
「それはご愁傷様」
「俺が振ったんだけどね」
「お前どうせモテるんだろ。オレなんかにしなくても、可愛い女は自然と寄ってくる」
若気の至りだ、と言い聞かせるように言うと、こいつは強引にオレの右手を掴んで引き寄せた。

「理由は簡単だよ。寄ってくる女を少しでも減らすため」
「…だから男と付き合おう、と」
「そういうこと」

つまりは女にモテ過ぎて困っているから、女避けとして付き合ってくれ、ということだ。
誰かと付き合えば諦めるやつもいるかもしれないし、ましてその相手が男となればドン引きするやつもいるかもしれない。

…それって、オレにも変な噂が立つじゃねぇか。
睨み上げると、そんなの知らないよ、と恐ろしい科白をさらりと吐き出す。
こんなやつと出会わなければ良かった。
川が逆に流れても、地面から雨が降っても良いから、こいつと出会う前に時間を戻して欲しい。

「…顔も知らない男に告白されることはよくあるけど、お前みたいなのは初めてだ」
「珍しい体験できたんだから、感謝しなよ」

俺と付き合えること自体すごいらしいよ、と言って、引き寄せた右手を握り込まれる。
なるほど、それはたしかに貴重な体験だ。
そしてこいつが自意識過剰だということも、苦手なタイプだということも、よく分かった。

「悪いけど、オレそんな気無いし」
「君に拒否権は無いよ」
「大体、勝手にオレの恋人だって名乗ったって成立してないだろ」
「いいんだよ。噂さえ立って身を引いてくれる人が増えれば」

あっそう、と呟いて、大きく溜め息を吐く。
ついでに握られている右手を振り払って、熱くなっている缶を持ち直した。
手元にある腕時計を見ると、7時半を過ぎている。
夕食に間に合わないじゃないか。温かいシチューが待っているのに。

「じゃ、オレ帰るから。ココアありがと」

顔も知らない男に告白するなんて、欲求不満にも程がある。
今夜は頭を冷やしてよく考えなさい、という意味でココアをくれたお礼も言ったし、付き合おう、という提案を死ぬ気で拒否することもしなかった。
それを後に後悔するようになるなんて、思いもよらなかったんです。
想定外、予測不可能。
ただ、奢ってもらったココアはびっくりするくらい美味しかった。




















すれ違う男子生徒が青いネクタイを着用していると、かならずそれを目で追い、
そういえばあんなやつがいたっけ、とぼんやり思案するようになった。
結局、あの日から顔を見ることも声を聞くこともなくなって、何事も無かったかのように平凡な日常を過ごしている。
ただ単に暇潰しの対象としてからかわれたか、男に告白したことを人生最大の汚点として後悔しているかのどちらかだろう。
彼女と別れたばかりみたいだったし、案外可愛い子から告白されて、オレのことなんてすっかり忘れているかもしれない。

日増しに重くなっていく通学カバンを肩にかけて、セーターの袖を指先がすっぽりと隠れるまで引っ張った。
灰色の雲で覆われた空が、視覚的にも寒気を感じさせる。
空の色が赤ければ、少しは気が紛れたかもしれないのに。
今より寒くなったらオレ死ぬな、とくだらない予言を呟いて、セーターの袖をぎゅう、と握り込んだ。
不意に背中を軽く叩かれて振り返ると、数日前に見た黒髪が目に入る。
あ、と声を漏らしながら、噂をすればなんとやら、とぼんやり思った。

「久しぶり、彼女さん」

凍え死んでしまいそうなほどつまらない洒落に、はぁ、と大きく息を吐く。
こんなに寒いというのに、息が白くならないなんてどうかしている。
どこかで川が逆に流れていても、地面から雨が降っていてもおかしくないほどの現象だ。

「誰が誰の彼女だって言うんだよ」
「君が俺の、に決まってるじゃない」
「お前、諦めたんじゃなかったのか?」
「そんなこと一言も言ってません」

数日間も音沙汰が無ければ、誰だってただの冗談だったのだろうと思うに決まっている。
「オレは認めないぞ」
今度は溜め息じゃなく、重い通学カバンに疲れた身体を楽にしようと二酸化炭素を吐き出した。
「男と付き合うなんて、絶対に」
「俺だって本気じゃないよ。付きまとってくる子を減らすためなんだから」
モテるって本当に疲れることなんだよ、君には分からないだろうけど。
嫌味ったらしい科白なのに、辟易としたような口調からはそんな印象は全く無かった。
ほんの少しだけ、親近感が湧く。

「オレだって、毎日男からのラブレターが下駄箱に入ってる」

お前とはちょっと違うけど、気持ちは分かるよ。
そう言うと青いネクタイの男が笑って、ポケットから飴を取り出した。
見慣れた包み紙から、それがミルキーだとすぐに分かる。

「同情してくれるなら、少しでいいから恋人のフリしててよ」
「却下。絶世の醜女と付き合って、ドン引きされた方が早いんじゃないか?」
「絶世の美男と絶世の醜女か、面白いね」

自分で言ったぞこいつ、と舌打ちして睨み上げてから、悔しいがたしかに顔は整っている、と心中で渋々認めた。
冗談で言ったのか本気で言ったのかはいまいちよく分からないけど。

「でも、どうせ付き合うんだったら可愛いほうが良いよね」

君って結構可愛いし、好みかも、なんて冗談っぽく笑いながら言った。
「か、可愛い言うな!男口説く暇があったら、さっさと最善策を考えやがれ!」
最善策、というのはオレと付き合う以外の『付きまとってくる女を減らす方法』だ。

「もう面倒臭い。それにあの日から付き合ってるし」
「オレは絶対に嫌だ!死んでも認めないぞ!」
「今更でしょ、そう言ったって」
「勝手に決め付けてんじゃねぇ!」

醜女と付き合うのは嫌なくせに、男はいいのかよ!
声を荒げたせいか少しだけ喉が痛くなって、小さく咳き込む。
隣で気にしてないように首を傾げたこいつは、少しだけ笑って見下ろしてきた。

「別に男がいいって訳じゃないけど。君ならいいよ」

さらりとそんなことを言われて、思わず少しだけ息を詰める。
返す言葉が見付からない、というよりも、返す暇が無かった。
うわ、今、ちょっと格好良い、とか思ったかも。
たとえ相手が同性でも、こんな風に言われたら、結構嬉しいものなんだな。
顔が良ければすべて良し、なんて言うわけじゃない、けど。

そんなことを思案している間に、こいつは包み紙から白い飴玉を取り出して、それを口元に運んできた。
う、と小さく唸って、躊躇いながらそれを口に含む。

「無理して好きになれって言ってるんじゃないんだから」

少しだけ協力してよ、という優しいのに有無を言わさないような口調に、オレは頷くことしかできなかった。




















正門を潜って下駄箱の前に辿り着くまでに、今更ながらに気付いたことがある。
普段はオレが浴びないような、チクチクとした視線が常に向けられるということだ。
男からの気持ち悪い以外に形容し難い、ネットリとした視線を浴びることはよくある。
でも隣にいるこいつが浴びているのは、女子生徒からの憧れや恋心を感じる、オレからすれば羨ましいことこの上ないものだ。
でもそれはやっぱり、こいつからすれば不愉快でしかないのだろう。
好かれることは良いことだが、じろじろ見られたって嬉しくはない。

「…お前も結構、大変だな」

早速桃色の封筒を持って駆け寄ってきた女子生徒に、オレは苦笑するしかなかった。
遠巻きにこちらを見ているやつもいれば、手紙やプレゼントを持ったやつも、少なくは無い。
「…鬱陶しいなぁ」
そう呟きたくなるのも、分かる気がする。

受け取ってください、と差し出された桃色の封筒をぼんやり見下ろしたかと思うと、
動かした右手は封筒にではなく、オレに向けて伸ばされた。

「悪いけど、もう彼女がいるんだ」

顎の辺りに触れてきて、されるがまま上を向くと、黒い瞳が限り無く近付いた。
息が吹きかかりそうな、というより実際吹きかかるくらいの、至近距離。
驚きに目を見開きながら、い、いま唇荒れてるかもしれないのに、ということばかりが頭をよぎった。
ぎゅう、と目を瞑った途端、あっさりと離れていく黒髪に間抜けな声が漏れる。

殺人犯に銃を向けられて、撃たれる、と覚悟したのに弾切れだった、という状況に近い。
なんだそれ、と思った方、自分でもなんだそれ、って感じです。
ただ、今は恋人のフリをしているだけで、キスをしているフリ、を見せるだけでも良いのだということにようやく気付いた。

キャー、という灰色の空にまで響きそうな、数十人という女子の黄色い声に我に返って、
今なに考えてたんだオレ、と涙目になりながら慌てて辺りを見渡す。
手紙を渡そうとしていた女子生徒は、顔を真っ赤にしたまま硬直していた。
オレも同じくらい赤面しているのが、自分でも分かる。
な、なに自分の唇のこととか気にしてんだ。
普通、逃げるとか拒絶するとか、それくらいのことしましょうよ、オレ。

「ち、違う!誰が彼女って、」
「ほら、おチビさん行こ」
「お前、人前でなんてことすんだ!」
「本当にされるよりはマシでしょ」

そういう問題じゃない、あとチビって言うな、と怒鳴ろうとしたのに、震える手で口元を押さえるだけで終わった。
な、なんだこれ、と情けない声が漏れる。
なんだ、この、変な動悸、は。
震える声でなんとか呟くと、貰ったばかりのミルキーの味が口に広がった。

































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最後までチョコたっぷりメイントッポ




私もミルキー大好きです



ほとんど有害。

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