高校に入学して約3ヶ月、夏休みを目前に控えた生徒の気分は有頂天。
入学早々の緊張感も、気持ち悪いくらいに整っていた制服も、いまはご覧の通り。
男子のネクタイは緩んで、ワイシャツのボタンもふたつくらいは涼しげにボタンフックから離れている。
女子もスカートが短いせいで目のやり場に困ることが多い。
夏休みが近いから浮かれている、という教師の愚痴のような言葉を聞くけれど、
別に夏休みが近いから制服を乱してるわけじゃない。
乱したいお年頃なのだ。
それと、寝坊も好きでやっているわけじゃない。
「…エルリック」
ドスの効いた渋い声にへらりと笑うと、体育教師は充血した目をひん剥き、ダン、とデスクを拳で叩いた。
びくっと身体を跳ねらせて、まだ結べていないネクタイを持ち直す。
「これで何度目だと思っているんだ!」
「いや、今朝は、目覚まし時計が壊れたんです」
「言い訳は聞かん!」
本当なんですってば。セットしていたはずのアラームが、鳴らなかったんです。
生徒指導室の真ん中に立つオレは、はぁ、と盛大に溜め息を吐いた。
睨み返したりもするけれど、4対1じゃあ勝ち目は無い。
四天王総動員でひとりの生徒を叱るとは、卑怯極まりない。
ちなみに四天王とは、恐ろしい教師ベスト10上位に堂々ランクインしている奴らのこと。
オレはあまり先生に対して興味は持たないので、名前と顔が一致しないし、覚えようとも思わない。
体育担当のイズミ先生しか、この4人の中で知っている人はいない。
「ネクタイもいい加減結びなさい!」
「結び方が、分からないんです」
「3ヶ月経つのにまだ結べんのか!」
「中学の時から、ずっと」
ふん、と顔を逸らすと同時に、授業開始10分前の合図であるチャイムが鳴った。
チ、と舌打ちした筋肉隆々の体育教師が、荒々しく椅子から立ち上がる。
「戻っていい」
「はい、ありがとうございマス」
授業があるのか、あっさり生徒指導室を出て行ったそいつの背中を言いながら睨む。
不意に背後から後頭部を叩かれて見ると、こちらを見下ろしていたイズミ先生が溜め息を吐いた。
「情けないねぇ、ほんと」
「はい、すみません」
イズミ先生は好きだから、オレは反抗したりしない。
そりゃ怒ったら怖いけど、生徒から信頼されている教師ナンバーワンはイズミ先生だ。
断言してもいい。
さっさと足元に置いたままだったエナメルの鞄を持ち上げて背伸びをする。
授業道具はロッカーに置きっぱなしだから、鞄は軽い。
それを乱暴に肩にかけて教室を出ようとしたとき、するり、と
握ったままのネクタイが手の中から引き抜かれた。
ぼんやり振り向くと、顔も名前も知らない教師がオレのネクタイを持っている。
だれだっけ、と思っている間に無理矢理ネクタイを首にかけて、くるりと巻いて、通して、
とにかく素早くネクタイを結んでくれた。
誰だっけ、と未だに思案して顔をしかめているオレを見下ろして、そいつも顔をしかめる。
「ネクタイくらい結べ」
そう言ってさっさと教科書を抱えて、教室を出ていった。
その後ろ姿をぼんやり眺めて、オレはぽつりと呟く。
「…誰だっけ」
とりあえず歳はかなり若かったし、綺麗に整った顔からして、オレはそいつを敵だと見なした。
あいつは敵だ。信頼できない、容姿の美しさしか能の無い男だ。
そう思って、窮屈なくらい規則通りに結ばれたネクタイを見下ろして、乱暴に緩めてやった。
一時限目の途中から眠気がマックスで、頬杖から何度もずり落ちそうになりながら必死に目をこじ開ける。
何度も唱えられる数学の公式も、さっぱり頭に入っていない。
ただの子守唄だ。
黒板をチョークで叩く音も気にならない。
まだ終わらないのか、とぼうっと時計を見上げると同時に、ぽこん、となにかが頭に当たる。
机に転がったそれを見て、のろのろとした動作で拾い上げた。
乱暴に千切られて丸められたルーズリーフには、「思い出した」とシャーペンで書かれている。
授業が始まる前に少しだけ話題になった、名前も知らないネクタイを結んでくれたあの教師のことらしい。
「それ多分、科学の先生」
その下に書かれた文字に、ふうん、とオレは頷く。
そういや科学の教科書を持っていた気がしないわけでもない。
さらにその下に書かれていた文字に、オレはむっと顔をしかめた。
「格好良いよね、あの先生」
少し離れた席に座っている幼馴染に、どこがだよ、と無音で言ってやる。
「え?だって綺麗じゃない」
きょとんとしたように無音で返した幼馴染は、鏡を見ながら長い金髪を結び直していた。
女っていうのはみんな面食いなのだろうか。
オレに向かって「ネクタイくらい結べ」、なんて言ったというのに。
ネクタイも、ネクタイすら、お前は結べないのか。
そう言って見下すような教師を、オレは好きになれない。
あと完璧すぎる容姿も許せない。
「あたしもよく知らないけどね、3年の担任みたいだし」
無音でそう続けたウィンリィが、桃色のヘアゴムを満足そうに鏡で確認する。
ふうん、とまた頷きながらシャーペンを回すオレの頭に数学教師の拳が落とされた。
痛ッ、と呻いて見上げると、分厚い眼鏡のレンズ越しにオレを睨む数学教師が溜め息を吐く。
「授業に集中しなさい。罰として課題を出すからこの後前に来るように」
理不尽だ、酷すぎる。
素早い動きで鏡を机の中に隠し、真っ白なルーズリーフに
芯の出ていないシャーペンの先を擦り付けるあいつには拳のひとつも落ちやしない。
そういやこいつ女子生徒に甘いって話を聞いたような、と頭を片手で摩りながら、
にやにやとした笑みを向けるクラスメイトに無音で怒鳴ってやった。
「お前も課題手伝えよ」
黒い短髪と大柄な身体の男が肩をすくめた。
「なにを言ってるかさっぱりだな」
授業が終了した後、こっそり抜け出そうかと思ったけどそれも面倒だしすぐに諦めた。
どうせ逃げたら課題が倍になるだけだ。
渋々課題の内容が書かれたメモを受け取り、それをぼんやり眺めながら机に伏せる。
数学準備室に提出すること。放課後5時まで。
最後に付け足された汚い字が憎らしくて、小さく舌打ちをしてやった。
ちょっとお喋りをしていただけで、ワーク2ページ分。
鬼だよ、鬼。変態ロリコンのおっさんめ。
声に出して喋ってないんだから、別にいいじゃん。
「ねぇねぇ、それでどうだったのよ」
「どうだったって、なにが」
「朝の科学の先生」
目を輝かせるウィンリィに、あぁ、と呟くように言いながら答えを丸写しする。
「べつに、普通」
「普通って、格好良いんじゃないの?」
「…悔しいが、百歩譲ればたしかに」
格好良かった、とぼんやり思い出しながら言うと、ウィンリィはきゃあきゃあと騒ぎ出した。
それもなんだか面白くない。
「どーせ噂ばっかりの目立たないやつなんだ」
なんだかんだでオレなんか噂すら聞いたこともないし。
負け惜しみじゃないけど、そうに違いない。
ぶつぶつ不平を言いながら、結んだままのネクタイが悔しくなって解いてやった。
あんなやつに結んでもらわなくても、すぐに自分で結べるようになる。
「でもどんな先生かよく知らないんでしょ?」
「…うん、まぁ」
「良い先生かもしれないし、会ってみればいいじゃない」
「やだよ、どうせまたネクタイ結べって言われるだけだし」
あと1分もあれば答えを写し終える。
さっさと提出すれば次の授業には余裕で間に合いそうだ。
答えを写すのは得意分野でね、詰めが甘かったようだな。
「…よし、じゃちょっと行ってくる」
「丸写しってバレるんじゃないの?」
「いいって、出せばいいんだから」
言いながら教室を飛び出して、ひとつ下の階まで下りる。
ネクタイを掴んだまま角を曲がって、適当にノックをしてドアノブを掴んだ。
「失礼しま…、」
語尾を言い切れずに、思わずぴたりと動きを静止させる。
ばっちり視線の合った例の科学教師を見つめて、しばらく瞬いた。
なんでここにいるんだ。
噂をすればなんとやら、っていうのは違うかもしれないけど。
「あ、間違えました失礼しました」
「数学の課題でしょ、こっち」
「…お邪魔します」
その上なんで知ってるんだか。超能力者か何かか?
ぽい、と乱暴に投げるようにデスクの上にそれを置いて、軽く睨み付ける。
失礼しました、と明らかにダルそうに言いながら踵を返すと、やっぱり手に持っていたネクタイを取り上げられた。
「ネクタイくらい結べ」再び。
「…また結んでない」
「はい、すみませんでした。でもこれは仕方無かったんです」
トモダチに引っ張られて変になったんですけど、結び直そうにも結べないんでね。
そう言っている間にネクタイを首にかけられて、ばし、と手を叩いてやった。
「余計なことすんな!自分で結べる」
「あっそう」
気にしてないように言いながら、オレの提出したワークを開いてパラパラとページを捲った。
だからなんでお前がここにいて、課題のことを知っているんだ。
「…丸写し」
ネクタイが結べずに四苦八苦しているオレの背中に、淡々とした口調で言う。
オレの苛立ちは最高潮に達しそうだった。
「…そうですけどなにか。提出しろ、としか言われてないんでね」
「そうだね、その通り」
おや、ちょっと意外だ。
怒られると思ったのに、とぼんやり呟いてネクタイを見つめる。
意外と難しいな、これって。
そうしている間に手首を掴まれて見上げると、無表情で見つめ返された。
「結ぶからじっとしてろ」
人を小ばかにしたような口調かと思いきや、案外普通のトーンで言われて、渋々ネクタイから手を放す。
素早くそれを結ぶ指先を見下ろして、むう、とオレは顔をしかめた。
悔しいが、身体の末端部分まで綺麗だ。
素直に言えば、指先が綺麗ですねってこと。
「はい、遅れないように」
「…ありがとうございました」
腑に落ちない。
でも顔は覚えた。
それからほんのちょっと、ちょっとだけ認めてやらないことも、ない。
ぱたん、と扉を閉めて、そこに張られている白い紙を見上げる。
数人の数学教師の名前しか書かれていなくて、あいつの名前はもちろん書かれていない。
なんであそこにいたんだろ、とぼんやり思いながら階段を駆け上って、時間ギリギリで教室に入って席に座る。
また遅刻かと思ったぞ、と顔をしかめたイズミ先生に、すみません、と頭を下げながら
保健体育の教科書を机から引っ張り出す。
43ページを開けなさい、という指示をぼんやり聞きながら教科書を開いていると、
不意に斜め前方辺りに座っているグリードがこっちを振り向いて、オレになにか話しかけた。
もちろん口パクの無音。
「どうしたよ、顔赤くねぇか?」
怪訝そうに言われて、肩をすくめた。
「なにを言っているかさっぱりですな」
顔が赤いのは、階段を駆け上がったせいだ。
そうに違いない。
自覚がなかったからそう決め付けて、窮屈なネクタイを少しだけ緩めてやった。
next
メイントップに戻っておチビさんを抱き締める。
高校生らしくおチビさんを生意気に…してみましたがどうでしょう…
そのせいで部分的にエドエンに見えてしまうかもしれないっていう…
ちなみに名前すら出てない科学教師はエンヴィーさんですよ。
ウィンリィとグリードは個人的に動かしやすいから
都合良く登場しちゃうお友達です