ベット脇のサイドテーブルに置いたままだったカップに手を伸ばした。
それを口に含んで、にがい、と小さく文句を言う。
温い、と付け足しながら振り返ると、首を傾げた鎧が本を閉じた。
「アル、砂糖多めにしろって言っただろ」
「えぇ?結構入れたつもりなんだけどなぁ…」
「あと温い」
「それは兄さんがぼーっとしてるからでしょ?」
溜め息と共に吐き出された言葉に、そうだっけ、と小さくコーヒーを覗き込んだ。
ミルクの入った優しい色に映る自分の顔が、笑い出しそうなほど間抜け。
「ここに置くねって言ったでしょ?」
「うん…それは聞こえた」
「それからずっと窓の外見てぼうっとしてたんだよ?」
開けっ放しで吹き込む冷たい風に、すっかり冷めてしまったらしい。
そんなに長い間ぼんやりしていただろうか。
自分としてはほんの数分、少なくともここまでコーヒーが冷めない程度の時間で外を眺めていたつもりだ。
「もしかして具合悪いの?」
「いや、そうじゃないんだけど」
「いつもみたいに考え事?」
「んー…なんていうか色々思い出してた」
首を傾げたアルフォンスに、へらりと笑って空を指差す。
綺麗な満月と、漆黒に散らばる星にアルフォンスも窓の外を覗き込んだ。
「小さい頃さ、寝る前に錬金術のことあれこれ話して」
「うん」
「それからは決まって一緒に月見てたよな」
「あはは、そうだね」
昼間は学校に行ったり。錬金術について話し合ったり。
そういうことでいつも精一杯で、空を意識して見ることはなかった。
大体空を眺めるといったら夜で、眠る前にアルとふたりで月について話したりしたのを覚えている。
それはいまも変わらずに、空を見るのは大体夜のまま。
「月ってどうなってるのかとか色々話したよな」
「そうそう、兄さんが欲しいって言って積み重ねた本の上に立ってさ」
「そうだったか?」
「そうだよ。背伸びして手を伸ばしても届かないから、いつか絶対手に入れてやる!って」
「はは、そっか」
笑いながら月を見上げて、コーヒーを口に含む。
なんとなく生身の手を月に向かって伸ばした。
昔こういうことを何度もしたのをぼんやり覚えている。
もちろん手は届かないし、ただ空気を軽く揺らしただけ。
「…なんかさ」
「ん?」
「月ってあったかいよな」
不意に呟くと、アルフォンスが不思議そうにこちらを見た。
少しだけ考えたみたいに黙り込んだ後、そんなの思ったことないよ、とくすくす笑われる。
「兄さんって変わってるよね。月の光ってどっちかというと冷たくない?」
「うん、冷たい。でもそれもちゃんとした温もりだろ?」
「…」
「遠くても冷たくても感じられるんだから。ここにあるって」
月の光に温かいも冷たいもないのかもしれないけれど。
でもひんやりとしたものをちゃんと感じると思う。少なくともオレは。
「心地良いなってオレは思うけど」
「…兄さんって意外とロマンチストだね」
「え?そうか?」
「うん。なんだか兄さんらしいけど」
肩を揺らして笑う鎧に、ぴたりと左手を当てた。
ほらお前もあったかい、と言った後ふたりで笑って。
もう遅いから寝なよ、と言われた。
素直に頷いて布団に潜り込む。
窓を閉めた後、カーテンも閉めようとする弟に慌てて起き上がった。
「あのさ、カーテンは開けたままでいいから」
「?…うん分かった」
不思議そうに頷いてから、じゃあおやすみ、と部屋を出て行く背中を見送って。
窓ガラス越しの光を浴びながら、まだ全部飲み終えてないコーヒーをぼんやり眺めて目を瞑った。
まだ昼前だというのに市場には人が犇いていて、うっかり余所見をしているとすぐに迷子になりそうだった。
新鮮なフルーツを並べたお店に、子どもを連れた母親が鮮やかな赤いりんごを見比べて。
食品を売っているお店だけじゃなく、アクセサリーを売っている露店もあった。
ふたりの男女が装飾品を見ているのを眺めたり、綺麗な飴細工のお菓子にきゃあきゃあと笑う子どもを眺めたり。
きょろきょろと見渡していると、アルフォンスがうきうきとしたように見下ろしてきた。
「たまにはこういうのもいいね。久しぶりじゃない?」
「あぁ、結構楽しいよな」
「見てみたいお店あったら行ってもいいよ?」
「いや、オレは…」
別にいいけど、と言い掛けてぴたりと足を止める。
どうしたの、と首を傾げたアルフォンスを見上げてから、えっと、と口篭って。
なになに、とさっきまで向けていた視線の方を眺められて、なんでもない、と慌てて首を振る。
「じ、じゃあオレあっち行っておくから」
「?…うん、じゃあ12時になったらあの時計台に集合だよ?」
頷くとアルフォンスは先に進んで、アクセサリーを売っているお店の前に止まった。
そういえばウィンリィのお土産はなにがいいかとか言ってたっけ。
ぼんやり思いながら、アルフォンスとは逆の方向に早足で向かう。
一瞬だけ、居た気がしたんだ。
そう思いながらぱたぱたと走って、露店がずらりと並んだ道を進む。
どこだ、ときょろきょろ見渡していると、路地裏に差し掛かる道の手前で、ブロック塀にもたれてぼうっとしている長い黒髪が見えた。
あ、と思って立ち止まる。
一瞬躊躇いながら、歩く速度を落として近付いた。
「…なにやってんだお前」
「あれ、おチビさん?」
なんだかやけに冷たかった視線が一変して柔らかいものに変わった気がして。
にこり、と取り繕うように笑われて気恥ずかしさに顔を逸らす。
「声掛けてくれるなんて珍しいね?」
「…お前が怪しすぎるからだ」
「あはは、そう」
棒の付いた飴を銜えているエンヴィーに、遊んでたのか、と見上げた。
暇だったから適当に歩いてただけだよ、と笑い返されて首を傾げる。
賑やかな周囲とは対照的な存在感がなんともいえない。
「お前もこういうところ来るんだな」
「うん、たまにはね」
白いコートを羽織っている珍しい姿をぼんやり眺めていると、なに、と首を傾げられる。
なんでもない、と視線を逸らした先に飴細工のお店があった。
黒髪の若い女の人が売っているみたいで、こちらを何度も見てくる視線が気になって首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、別に…お前その飴どうしたんだよ」
「ん?お店のおねーさんに貰った」
やっぱり、と思ってまたお店の方を見ると、明らかにエンヴィーの方を見ている視線に少しむっとする。
まぁたしかに見た目は人間と変わらないし、美形の部類にカテゴライズされるだろうし。
「おチビさんのこと見てるんじゃない?可愛いし」
「可愛いとか言うな、むぐ」
口に入れられた物に言葉を飲み込むと、微かに甘い味がする。
棒付きの飴だ。
「あげる。もう飽きちゃった」
「お前な…」
「弟くんは?別行動?」
「あ…うん」
「じゃあ暇なんでしょ。一緒に遊ぼうよ」
綺麗に微笑みながら手を差し出されて顔をしかめた。
いやだ、と言いながら顔を逸らすとくすくす笑われる。
「いいじゃん。見せ付けてやろうよ」
「…気付いてたのかよ」
「そこまで鈍感じゃないからね」
けらけら笑いながら手を握られた。
ちらり、と露店の女の方を見ると、ちょっとびっくりしたみたいにこちらを見ている。
ほんの少しの優越感。
「はい、どこ行く?」
「…べつに」
「じゃあぐるっと見て回ろうか」
「…なんか楽しそうだな」
「うん。おチビさんがいるから」
あっさりと言われた言葉に、恥ずかしいこと言うな、ともごもごと口篭る。
それから少しだけ前を歩く背中をぼんやり見つめた。
長い黒髪が風に揺れてふわりと舞う。
たしかにこいつが歩いたら、大抵の女は振り返るだろうな。
ぼんやりそう思った。
「お菓子屋さん」
「…いま飴食ってる」
「アクセサリー」
「オレは男だ」
「果物」
「べつにいらない」
次々と通り過ぎるお店を見て言うエンヴィーに返事をしながら、きょろきょろと見渡す。
いつもここってこんなに賑やかだっけ。それに露店が多い気がする。
ぼんやりそう思っていると、思い出したようにエンヴィーが振り返ってきた。
「そうそう、この先の噴水のある広場でなにかお祭りあるみたいだよ」
「…それでこの騒ぎか」
「うん。行ってみる?」
「いや、アルと待ち合わせするし。別にこうやって回るだけでもいい」
「オレと一緒だったら楽しいって?」
「んなこと言ってない!」
今更恥ずかしくなって握っていた手を振り解いた。
気にしてないみたいにくすくす笑って、じゃあ行こうか、とまた歩き出す。
待てよ、と慌てて追いかけようとしても、エンヴィーが立ち止まっていた場所にどんどん人が流れ込んで。
慌てて見渡してもエンヴィーの姿が見えない。
内心焦っていると、ぐい、と道の端の方へ腕を引っ張られて少しよろける。
「大丈夫?」
「…、お前が急に歩くからだ!」
「うんごめん。人多いし上にしよっか」
「は?上?」
きょとんとしている間に抱き上げられて、すぐそこの路地裏に入り込んだ。
まさか、と思っている間に地面を蹴って飛び跳ねる。
人間ではあり得ない跳躍力。これにはもう慣れてきた、けど。
なんともいえない浮遊感と流れる景色に目が回りそうだった。
ぎゅう、と目を瞑ってしがみついている間に、とん、と着地したのが分かって。
そろりと目を開けると、建物の屋上のようだった。
呆然として下を見下ろすと、たくさんの人とずらりと並んだお店が見える。
上ってこういうことか、と呟くとゆっくり降ろされた。
「ここだったらゆっくりできるし。誰にも邪魔されないし」
「…あちこち見て回るんじゃなかったのか?」
「おチビさんと一緒だったらなんでもいいよ」
「あっそう」
またそういうことをさらりと言う。
恥ずかしいやつだ、と半ば呆れながら腰に手を当てて街を見下ろした。
アルはどこだろ、と視線をあちこちに向けていると、すぐに大きな鎧が目に入って。
なにか買ったのか、紙袋を抱えている。
「…下はいいからさ。上見なよ」
「え…?」
その声に見上げると、雲ひとつない青い空があった。
鮮やかな青い色に一瞬見惚れて、うわ、と声が漏れる。
こんなにいい天気だったんだな、と今更思いながら見上げていると、エンヴィーがにっこりと笑う。
「いい天気でしょ?あったかいね」
「…あぁ」
「太陽ってすっごく遠くにあるのにこんなにあったかいんだよ?すごいと思わない?」
子どもみたいに笑って言った言葉に苦笑して頷く。
たしかにすごい、とは思うけど。
「夜は忙しいからさ、空を意識して見るのは大抵昼なんだよね」
「…ふうん」
「手を伸ばしたって絶対届かないのに、すごく温かい」
ふわりと優しく微笑みながら言って、両手を思いっきり伸ばす。
何百年も生きてるくせに、言うことも考えることも子どもみたいだ。
思わず笑うと、首を傾げて見下ろしてくる。
「大体手が届くくらいだったら焼け死ぬんだぞ?」
「うん。でも欲しいものが手に入るなら、それでもいいかなって」
「ふーん?お前らしいな」
「そう?」
綺麗に笑って手を下ろしても、まだ空を見上げている。
なんだか意外な光景だった。
こいつがそんな風に思って空を見上げるなんて想像したこともない。
「遠くても分かるよね。ここにあるんだって」
「…」
「ちゃんと温もりを感じて安心できるから」
それでいいよ、と付け足した言葉に、ふうん、と呟くように言いながら首を傾げる。
それから前触れなく手首を掴まれた。
なに、と思っている間にぐいぐい引っ張られて、向かい合うように見下ろしながら髪を撫でられた。
「おチビさんって太陽みたいだよね」
「…はぁ?」
「あったかいし眩しいし。それにすごく遠い」
エンヴィーの言った言葉に、一瞬きょとんとしてしまった。
とおい、という言葉の意味がよく分からなくて、すこし考えてから軽く頬を抓ってやる。
今度はエンヴィーがきょとんとしたようにオレを見下ろした。
「遠くなんかないだろ。ちゃんと触れるし」
「…そうだね」
遠いなんて変だろ、と言うオレに一瞬呆気に取られたみたいに首を傾げてから、ふわりと微笑まれて。
なんだかすごく嬉しそうな柔らかい笑顔に、今更恥ずかしくなって顔を逸らす。
冷たい体温が心地良いなんて気付いても気付かないふり。
そろそろネタがないメイントップ
遠くて近い存在。
遠いと言えば言うほど遠くなるのは自分。